手話動画

手話動画 秋田の手話で語る

地域に生きるろう者が暮らしの中で紡いできた「秋田の手話」が、この先もずっと続いていくことを願い、手話動画を作成しました。

地域のろう者の豊かな手話表現そのままを見ていただくため、敢えて映像に字幕を付けておりません。ご本人確認のもと、内容を文にまとめました。

この映像をとおし、手話という豊かな言語に触れ、地域のろう者の暮らしや思いを知ってほしいと思います。

※個人情報保護の観点から個人名を伏せて記載しております。

vol. 1 ~わたしの歩み~T.Yさん

vol. 1 ~わたしの歩み~T.Yさん(文字)

vol. 2 私の体験 ~3.11を経て~ K.Kさん

vol. 3 人生いろいろ ~野球少年から年を重ねて~ M.Mさん

vol. 4 あの時の思い出 ~秋田県立盲唖学校に入学した事~ T.Aさん

あの時の思い出について、お話したいと思います。

父は小・中学校の先生、母は裁縫の先生でした。私は、昭和13年11月に生まれ、7才になるまで聞こえるのか聞こえないのかわからないまま育てられました。家から歩いて10分ほどの所に桧木内川があり、石に隠れている魚をとったり、角館小学校のグランドの桜の木の皮から出るやにで、このように遊んだりして、楽しかったです。

昭和20年になる少し前まで、父は、聞こえる子どもたちが通う小中学校の教師をしていました。子どもが聞こえないということで、特殊教育学級のある学校に勤めたかったのですが、満員とのことで盲唖学校に勤務することになりました。そして、私も昭和20年4月から盲唖学校に入学しました。

 盲学校の寄宿舎の宿直当番では、父と一緒に私も見回りをしました。夜、腰にさげた物に施錠の鍵を入れながらキセルをくわえて舎内を見回る父に、私は手を引かれて歩きました。上級生がその様子を見て私につけた手話のあだ名が広がり、今に至ります。

昭和20年の戦争中は、防空頭巾を被り、山奥の安全な所に集団で走って逃げ、危険が去るのをじっと待っていたことを覚えています。

終戦後は、食料不足のため、上級生と一緒に雄物川沿いの野原を開墾し畑にしました。芋の種をまいて畝を作り、秋には大根の種をまく等、毎日のように作業をして難儀したことが記憶に残っています。

小学2年の頃、赴任してきたN先生から、いろいろ学び知識を得ることができました。とてもうれしかったです。2年間N先生から学びましたが、先生は福島に引っ越されました。私たちはとても残念がったものです。その後、軍人のような先生が、赴任してきました。9年間もの長い間その先生は学校にいましたが、とても厳しく、生徒たちを黒板消しで叩いたりするので、授業中、私たちは怖がったものです。先生に対して何も言うことができず、緊張した授業は高校3年になるまで続きました。授業の内容は、全くわからないままでした。先生は本の文章を声に出して読んでいるようなのですが、内容がわからないので、ひたすら分かったふりをしていました。

高校3年の卒業前に、先生から、専攻科へ進むことを勧められたのですが、同級生と相談した結果、高校3年で終わりにし、卒業することにしたのです。