7.みんなの広場 〇「塙《はなわ》保己一《ほきいち》総検校《そうけんぎょう》とヘレンケラー」 能登俊治 そのC 検校は、学問が深まり進むにつれて、ただ多くの書物を系統だてて読み分けて、足跡をたどり、理解するだけでは、立派な研究とは言えないと悩むようになり、すべて学問をするには古《いにしえ》からの日本の国体を調べ、失われていく古書、古本を保存することが大事で、後世の学問にも役立つと考えて誰もなしえていないこの事業こそ自分がなすべきことと思いこれこそ自分に与えられた天命と思い後々《のちのち》の学問と文化の宝となる思い、群書類従《ぐんしょるいじゅう》の制作を固く心に誓った。 そして幕府から拝領した屋敷に「和学講談所」をつくり多くの門人を抱えることになった。 「和学講談所」はときの老中首座松平定信が温故知新という言葉から「温故堂」と名付けてくれた。 こうして日本の書物の宝庫文化の偉大な叢書群書類従は製作されることになった。 検校はさらには水戸藩の「大日本史」の校正にも携わることになり、最初はなにも盲人の手を借りなくてもと口にする学者もいたが結局は検校の学問の深さを認めて手を借りることになった。 検校は76歳で亡くなるが、後世にまで伝えられている逸話を残している。 検校が辰之助時代早朝、毎日平川天満宮に日参している時に激しい雨が降ってきて下駄の鼻緒が切れてしまった前川版木屋の前にさしかかり下駄の鼻緒を挿《す》げてくれませんかと店に声を掛けると店からは下駄の鼻緒を挿《す》げろだと按摩のくせにと鋭く蔑《さげす》まれ鼻緒には役に立たない紐を顔に投げつけられた。そしてさっさと立ち去れと言われ辰之助はそれを拾い丁寧にお辞儀をして歩き始めた。 前川版木屋の小僧達の嘲《あざけ》り笑う声を背中に浴びせられ辰之助は怒ってはならぬ腹を立ててはならぬと口に心経を唱え激しい雨の中を歩き始めた。 小僧達の浴びせた按摩のくせにと言う言葉は辰之助の心に深く残り学問の修行への道を一層励むことになった。 10年後検校は前川版木屋を指名して版木を頼むと前川版木屋は「見知らぬ私共にどうして版木をお頼《たの》みになったのですか」と聞かれて検校がこれこれしかじかと話しをすると前川版木屋の主人は平伏し頭を上げられず、しかし検校がいやいや決して攻めているのではない、私はかえって一層学問に励むことが出来て感謝しているのだと言うと前川版木屋の主人は平蜘蛛《ひらくも》のように平伏し「心を込めて掘らせていただきます」と言うばかりであったと言われる。 またある人が書いた文字が解らず塙《はなわ》検校は物知りだから解るだろうと訪ねて来て掌に文字を書かせると検校は直ぐに解り道を教えると詩中には「目あきめくらに道を聞き」或いは「目あきめくらに物を聞き」と言う教科が流行り始めたと言われる。 更にはしんしょう清親《きよちか》の「塙保己一源氏物語抗議の図」と言う有名な図が残されているが検校は毎月源氏物語の抗議よくしていて、ある夏の夜《よ》に暑くて誰かが戸を開けると風が入り百目蝋燭《ひゃくめろうそく》が消えて辺りが真っ暗になり、慌てた門人が遠慮がちに先生蝋燭が消えてしまいましたと言うと検校は「さてさて目あきとは不自由なものだなー」と笑いながら言ったと言われている。 さらに「番町に過ぎたるものが二つあり佐野の屋敷の桜と塙の検校」と人々の口に親しみを持って囁かれるようになった。門人の中山信名《なかやまのぶな》は検校が74歳の時に「温故堂塙先生伝」を書き表わしている。 塙検校は76歳で亡くなるが、ある大名屋敷から直して貰いたい和歌を50種覚えて来て、どうしても3種思い出せずに我が身の老いを感じたのかがっかりしていたと言われる。 それから数ヶ月後1821年9月12日家族と門人たちに見守られ大きな息を吸い大きな波が引くように静かに亡くなっていった。 そのDへつづく ○皆様からの投稿について 「点字図書館だより」に、読んだ本の感想や、体験談、短歌・俳句など利用者の皆様からの投稿をお待ちしております。 お預かりした作品は、「点字図書館だより」内「みんなの広場」でご紹介させて頂きます。 投稿していただくときは、大体1000字以内にまとめていただくと、掲載しやすくなります。 (送付先)   〒011-0943 秋田市土崎港南3丁目2の58  秋田県点字図書館 (FAXを利用の場合は) 018-845-7772  (メールを利用の場合は) アドレスtenji@fukinoto.or.jp いずれも「みんなの広場」係まで お電話での聞き取りでも可能です。