7.みんなの広場 〇「塙《はなわ》保己一《ほきいち》総検校《そうけんぎょう》とヘレンケラー」 能登|俊治《しゅんじ》 そのD 最終回  私は見えていた時には塙検校のことは全く知りませんでした。  何しろ教科書と週刊誌以外は1冊の小説も単行本も読んだことも無く小説や文学には全く興味も関心もありませんでした。  またヘレンケラーのことを知ったのも偶然で、宇都宮の電話局で自動交換機の設営をする会社で働いていた時でした。  仕事が終わり12月の寒い日に電話局から出て無性に物悲しい気持ちに陥《おちい》りふと目を上げると、奇蹟の人と言う映画の看板が目に入り、何か超能力な奇蹟を起こす面白い映画かなと思い、何も考えずに慌てて映画館に飛び込みました。  それがヘレンケラーの映画で白黒映画で列車から降りて来たサリバン女史の姿と、動物の様な生活をしていたヘレンケラーが手押しポンプから流れ落ちる水に手を触れて始めて、物には名前があることを理解し、天に向かって「ウオーター」と叫び歩き回る姿は今も思い出されます。  ヘレンケラーは物には名前があると理解すると、1日に400も言葉を覚えたと言われる。  しかし天才ヘレンケラーも自分の歩む道の厳しさ険《けわ》しさに非常に落ち込み、立ち上がれない状態になっていた時期があった。  そんな時に日本の文部省からアメリカの大学に若い官僚が留学派遣をされていた。  その大学には電話を発明したベル博士がいて、ベル博士とヘレンケラーの母親は知り合いで、ベル博士は若い官僚から日本の江戸時代に盲人で立派な大学者がいたことを詳しく聞き、それをヘレンケラーの母親に話をした。母から塙検校のことを聞いたヘレンケラーは天才は天才を知ると言うが、塙検校の業績を聞き不屈の魂の叫びで呼びかけを聞いたかのように彼女の魂が揺り動かされ、勇気と力と功名を与えられ、彼女は発奮し再び立ち上がり、世界のヘレンケラーへとなっていった。  1937年昭和12年4月26日、彼女は日本に来て「温故学会記念館」を訪ね、素晴らしいメッセージを残している。  彼女は「温故学会記念館」を訪ね、そこに保管されている群書類従の版木や検校の愛用した机や検校の鋳造《ちゅうぞう》に手を触れながら、幼い頃母親から日本の塙保己一先生の偉業と不屈の精神を聞かされ、自分も発奮したと述べ、塙検校こそ私の生涯に功名を与えて下さった大偉人です。本日先生のお像に触れることが出来ましたことは、日本における最も有意義なことと思います。  学者の手垢の沁みついたお机と頭を傾けておられる敬謙《けいけん》なお姿には、心から尊敬の念を覚えます。先生のお名前は流れる水の様に永遠に伝わることでしょうと検校に賛辞を述べている。  私は見えなくなり全く知らなかった塙検校の本を読むことになり、本を読んでいるうちに私の頭の底から小学生の時に図書室で見た検校の座像と塙保己一、源氏物語講義の図が突然思い出され、甦り、小学生の時には陰気臭いおっさんだなー、にやけたおっさんだなーと思っただけでピシャリと本を閉じてしまいました。 「うわーあれが塙検校であったのか」と記憶が蘇えった瞬間、声を出して叫んでおりました。  読者や書物は普段は何の力も持ちませんが、優れた書物を蓄え納めておくことは様々な局面に立たされた時、優れた書物はその人に迫り、何かしらの功名を与えてくれるものかもしれません。それが読書の素晴らしい所かも知れません。  以上です。 ○皆様からの投稿について 「点字図書館だより」に、読んだ本の感想や、体験談、短歌・俳句など利用者の皆様からの投稿をお待ちしております。  お預かりした作品は、「点字図書館だより」内「みんなの広場」でご紹介させて頂きます。  投稿していただくときは、大体1,000字以内にまとめていただくと、掲載しやすくなります。 (送付先) 〒011-0943 秋田市土崎港南3丁目2の58 秋田県点字図書館 (FAXを利用の場合は) 018-845-7772  (メールを利用の場合は) アドレス tenji@fukinoto.or.jp いずれも「みんなの広場」係まで  お電話での聞き取りでも可能です。