7.みんなの広場 〇「塙保己一《はなわほきいち》総検校《そうけんぎょう》とヘレンケラー」 能登俊治《のとしゅんじ》 Aここまで群書類従《ぐんしょるいじゅう》のことについて書いてきましたが、塙検校のことについて少し書いてみたいと思います。 検校《けんぎょう》の塙《はなわ》近隣の村の名主の娘で、教養のあった女性で、寅之助《とらのすけ》に源平合戦や様々な物を聞かせるとたちまち記憶し、並みの子どもではない才能をみせつけていたといわれている。 7歳で失明し、辰之助《たつのすけ》と改名し、目が悪いが、母の強い希望で村の和尚さんが教える寺子屋に通わせてもらい、後ろの席に置いて貰うことになった。 ところが和尚さんが教えることは、ことごとく記憶し、和尚さんがうっかり話そうものなら、辰之助は「そこはこうでなかったですか。」と並外れた記憶力を発揮させて、和尚さんを慌てさせることがしばしばであったといわれている。 辰之助の記憶力は紙に書いておくよりも確かだと村でも評判になるほどであった。 辰之助の驚嘆すべき記憶力と能力には和尚さんは、この子供はまっすぐ生きればひとかたの優れた人物になるが、間違えると自ら身を亡ぼすものになるかもしれないと、恐れたといわれている。 辰之助が12歳の時に最愛の母が亡くなり、辰之助は母の墓の前で毎日泣き崩れていたといわれる。 辰之助は村に出入りする江戸の絹商人《きぬあきんど》から、ずっと昔に江戸には杉山検校《すぎやまけんぎょう》という関東総録検校《かんとうそうろくけんぎょう》がいて、江戸の本所《ほんじょ》一つ目に総録屋敷《そうろくやしき》をもらい、学問所を開き、秘伝であった針術《しんじゅつ》を多くの盲人に教えていたと聞かされて、また江戸には太平記読みといわれる講談師のような者がいると聞かされて、辰之助は江戸に出て、なんとか学問をしたいという気持ちが次第に強くなっていった。 和尚さんは、なんとか辰之助の希望を叶えてやろうと武蔵の国の殿さまを通し、江戸の旗本から江戸の雨富検校《あめとみけんぎょう》に声を掛けてもらい雨富検校が辰之助の身を引き受けてくれることを取り計らってくれた。 辰之助は15歳の時に、母の手縫いの巾着に錢《ぜに》を23文を入れて、後《のち》に宝箱といわれる、素麺箱《そうめんばこ》に着替えの衣類を入れて、江戸のことに詳しい絹商人《きぬあきんど》に連れられて、雨富検校の門を叩いた。 しかし雨富検校の所では盲人の生活の糧を身に着けさせるための、琴、琵琶、三弦、あん摩、針術《しんじゅつ》の修行のみを教えるところであった。 天は人に二物を与えないというが、辰之助は無類の不器用であった。 平家物語や医学書は一言一句すぐに覚えるが、音曲《おんぎょく》、針術、あん摩はなかなか身につかず、いつも兄弟子たちに叱られているばかりであった。 ついに辰之助は一年ほどでノイローゼのような状態になり、川の崖っぷちから身を投げて投身自殺をしようと、母の手縫いの巾着を握りしめたとき、兄弟子と下男が駆けつけてきて、家に連れ戻された。 雨富検校からは厳しく叱責されたが、雨富検校は、辰之助は何がしたいのかと問いただされ、彼は師匠の前で初めて、自分は学問がしたいのです、と告白した。 すると雨富検校は、そうか、それでは三年間ただ飯を食わせるから、その間、学問に励みなさいと言われた。 辰之助には師匠の声が神の声のように思われ、思わず体を震わせ、大粒の涙をボロボロと零れ落とした。 雨富検校の度量の大きさもさりながら、辰之助の底知れぬ能力を日ごろの生活から見抜いていたものと思われる。 それからは辰之助は学問の神様、菅原道真《すがわらみちざね》を祀《まつ》る平河天満宮《ひらかわてんまんぐう》日参すること、毎日般若心経《はんにゃしんぎょう》を百篇《ひゃっぺん》唱えることが学問をするからには、けして腹を立て短気を起こさないこと、人には穏やかに接し、人を分け隔てしないことを固く心に誓った。 Bへつづく 〇エッセイ風自分史・三郎 三四 車を運転する 武田金三郎 二十七歳から二十九歳はじめの一時期、私は車を運転していた。動機は常識とまるで逆さま、目が悪くなったので車を運転しなければならない、と思ったのだからあきれる。目で困ったのは二つある。視野狭窄と夜盲であった。 車に便乗していて私は考えた。車はフロントガラスの前方だけを見ていればいい。左側を走っているかぎり、右の対向車にさして注意をはらわなくてもよさそう。なら視野狭窄でもいいのでは。夜盲は夜に運転しなければいいだけのことだ。それにしても車のライトは明るい。眩しくて仕方ないほどではないか。だとしたら夜だって運転可能かも。 車は東京で運転手を生業にしている次兄に丸投げして買った。次兄が東京から運転して持ってきてくれたのがトヨタのカローラ・パブリカスプリンターなる中古のクーペであった。ツインキャブでハイオクタンガソリン、おまけ、ラジアルタイヤまで履いている。 免許取りたての私はこれで営林署に通勤するようになった。運転は命がけ並みに緊張したが、緊張は車を手放すまで続き、手放したときの安堵感ときたら命拾いそのものであった。 車を手にして間もなく、母が胃癌で胃全摘手術を受けた。取り出した胃袋を見せてもらったが、阿蘇の外輪山を真っ先に連想した。大きな円を描いた盛り上がった中が平坦なのだ。退院後の通院を私が自分の車で送り迎えするはめになってしまった。そうしてすぐ事故を起こした。十字路を右折するとき、対向車の横っ腹に衝突したのである。 視野狭窄によるもので、対向車線の車を把握できていなかったのだから当然のことだ。夜盲だから夜だけ運転しなければいいか、と思っていたのがそうではなかった。 雨の日の暗さでさえ危なかったし、夕暮れ時も。雪道は一面が真っ白、道と外の識別がおぼつかない。これは色神異常のせいか。晴天の明るさも眩しすぎて識別困難であった。 車を持ったら労働組合執行委員にあてにされた。現場オルグに出されるのはまだいい。営林署の現場は山だから走行する車が少ない。皮肉にも、未舗装の砂利道がアスファルトを疾走させられるより楽であった。けれどアスファルトも走らされた。秋田市での会議がある。阿仁部五営林署分会のブロック会議もある。それに青年婦人部のあれこれも。私は目の悪いことをカミングアウトしないでいた。 二年そこそこで車を手放したのは母の通院が間遠になったことが大きい。この母だが、二年持つかどうか、と医者に言われていたにもかかわらず、転移することなく八十歳までながらえた。 そんな車であったのに、私は車を持ったことを後悔していない。車のことを書くことができるのだ。あれがなかったらツインキャブもラジアルタイヤも、ハイオクタンガソリンだって何のことやら分らないで過ごしていたに相違ない。 ものを書くのに素人であっても体験すること、調べなければならないことは避けて通れない。私は避けて避けて避け通してきている。今だって私のホームグランドであった国有林野を徘徊したい気持ちを抑え難い。胸をかきむしりたくなるほどだ。 ○皆様からの投稿について 「点字図書館だより」に、読んだ本の感想や、体験談、短歌・俳句など利用者の皆様からの投稿をお待ちしております。 お預かりした作品は、「点字図書館だより」内「みんなの広場」でご紹介させて頂きます。 投稿していただくときは、大体1,000字以内にまとめていただくと、掲載しやすくなります。 (送付先) 〒011-0943 秋田市土崎港南3丁目2の58  秋田県点字図書館 (FAXを利用の場合は) 018-845-7772 (メールを利用の場合は) アドレス tenji@fukinoto.or.jp いずれも「みんなの広場」係まで お電話での聞き取りでも可能です。