6.みんなの広場 〇能登俊治《のとしゅんじ》さんの投稿 「男谷検校《おたにけんぎょう》と勝海舟」 先月号のつづき 男谷平蔵は次期新陰流の剣術道場を開きこの道場からは名の知られた剣客が多くでている。 中里介山《なかざとかいざん》の長編小説「大菩薩峠《だいぼさつとうげ》」には盲目の剣士机竜之助《つくえりゅうのすけ》のことが書かれているが、実在の人物の島田虎之助《しまだとらのすけ》がでてくる。さらには上野の彰義隊《しょうぎたい》を指揮した天野八郎や、幕末最後の剣客と言われ、鉄兜を一刀のもとにたちわった榊原鍵吉や、海舟のいとこで幕府講武所剣術師範になった男谷精一郎が出ている。 勝家は本来剣術の家筋で、海舟は島田虎之助のもとで激しい剣術と禅の修業を続け免許皆伝の目録をうけている。 22、23歳の頃には蘭学を学び蘭学塾を開いている。ちょうど黒船来航で大波を受けて右往左往する幕府に「海防意見書」を出して、ただひとつ採用されて「長崎海軍練習所」でオランダ士官から海軍と軍艦の操作術を学び、非常に信頼されて、オランダ士官から豊富な知識を学んでいる。 海舟には男谷検校の常人では持ちえない、傑物の血が五体に脈々と流れ受け継がれていたものと思われる。大西郷《だいさいごう》との江戸無血開城の談判に応じては、官軍の総攻撃を明日に控え、絶対絶命のもとで幕府陸軍総裁として馬に乗り、馬蹄ひとりを従えて官軍総督府本陣薩摩屋敷に威風堂々臆することなく、たった一人で乗り込んでいる。 大西郷との談判決裂の際には、官軍を江戸市中に引き入れ、一挙に火攻めにして大打撃をあたえる秘策を深くのみこんで、剣術と禅で鍛えた武士の誇りと命がけの覚悟を腹中に潜め談判に臨んでいる。 談判においては一歩もひくことなく、しかしながら蘭学を学び身につけた豊富な知識と咸臨丸《かんりんまる》難構図で知られる渡米による豊かな見識を持って、世界の情勢と日本の国情を切々たる熱意と誠意をもって説き、無益な戦の愚行を熱心に説いた。 そしてついに5尺たらずの海舟は大西郷を動かし国を動かした。 大西郷の江戸無血開城の決断は江戸市中100万の人々の命を塗炭《とたん》の苦しみから救い、世界でも例のない大英断であった。 男谷検校が若き日に、杖一本を頼りに江戸に出て来なかったならば、二人は決して出会うことはなく、当時の官軍と幕府の実情では、ほかの人物が出会ったのでは、江戸は火の海になり矢だまが飛び交い、人々は塗炭の苦しみにあい、泣き叫ぶ嘆きの声が焦土と化した江戸中を駆け巡ったことと思われる。 二人が出会ったことはまさに天運であったと思われる。のちに大西郷は西南戦争で倒れるが、海舟はその死を惜しみ周囲の反対を退けて、2年後大西郷の無血開城の功績を称え、「君我を知る我君をしる」とあふれる敬意を込めて自費で追悼の石碑を建てている。 今もその石碑は勝海舟夫妻の墓のそばに建っている。 明治32年勝海舟は77歳でこの世を去るが、無血開城はその後の日本に計り知れない発展をもたらすことになった。この大仕事を成し遂げ、最後に「これでおしまい」と一言残して亡くなっていった。じつに見事な人生であったと思われる。 それも男谷検校から引き継がれた傑物の気質と豊かな見識が成しえた大いなる人生であったと思われる。 無血開城の偉業に至る先端に男谷検校が越後の国から杖一本を頼りに江戸に出てきた行動が係わっていたことは、私たちは少しは顔を上げ少しは誇らしげに思ってもよいことではないかと思います。 今までわたしは多くの私たちの関係者と出会いましたが、誰一人男谷検校のことを口にした人はおりませんでした。 そうしたことでいつも甚だ残念に思っておりましたので、今回男谷検校と勝海舟の関係について少しは知ってもらいたくて、自分勝手に思い自分勝手に文を書いてみました。 〇エッセイ風自分史・三郎 二九 ところで目はどこまで見えてどこから見えないの 武田金三郎 ところで目はどこまで見えてどこから見えないの、と問われたら私は困る。とりわけ三十代半ばから退職する四十二歳まで、自分でもよく分らないでいたのだから。 このころ、左目では文字の判読ができなくなっていて、目の前で掌を振ればようやく確認できるくらいなっていた。左目は高校二年の春、たった数時間で失明したものの、一ヵ月の入院で医者もよく分らないまま〇.五まで回復したのだが、その後数年もしないで文字の判読ができなくなった。頼みの右目だが、夜盲が進んでいたし、これにも増して視野狭窄も進んでいた。 視力検査の掛け軸だと〇.四くらいはかなりの間維持していた。だから焦点が合うとそこは見える。前田食堂のイナ子を引き合いに出すと、右の目を見て左の目を見る。まるで幼児のように澄んでいる瞳のよう。輪郭をなぞれば丸顔、鼻は普通。しゃべりまくっている口を見たら右上犬歯と小臼歯が欠けてポッカリト黒い穴が空いている。三メートルほど離れた位置からだと観察しやすい。 本を読むとか書類を見るとか書くとか。五桁の数字、文章の文字列を一つの塊《かたまり》として捕捉できない、ので一字、せいぜい二文字づつ読み下していくことになる。途中で欄違いすることも。私の目に合った照明もちょっと暗ければ役に立たないし、真昼の陽光が入ってくると、眩しくて白く輝いて判読できない。緊張が加わると倍加する。 歩くと躓《つまづ》く。これを悟られないよう平然さを装ってしまう。秋分の日を境にドンドン日が短くなっていく不安。駅に辿り着くとひと安心、東能代駅で下車して自宅に辿り着いてまた安心。どちらも十数分そこそこ、しかも車の心配がほぼない閑散とした通勤コース。それで気が緩んで行き過ぎたり迷ったりも。 「武田さーん、どごさ行ぐんだげ」  東能代駅の近道、駅構内の独身寮を過ぎたあたりで方向を失い、うろついていたら知っている駅員に発見されて手を引かれて元のコースへ。 新聞は『朝日』と『毎日』紙を講読していた。大見出し、小見出しだけを拾い読みしても二紙を読むと世の中のおおよそは把握できる。リード文を読みたいときは拡大を使う。 原稿用紙は市販のものは使えなくなっていた。茶とか紺色の升目が見えなくなっていたもので。印刷屋さんに黒の升目を特注し、二度目には線が太くなり、三度目には升目を大きくした分、紙も大きくする。極太の万年筆からサインペンに。これ等をいちいち第三者に説明するのは嫌なものだ。というかうまく説明できない。 『本当のところ、どこまで見えているの。見えているのに見えないふりしてるんじゃないのか』 クドクド説明したくない。すると疑心暗鬼が膨らんでいく。けれど今やらないと来年はもっとできなくなる。これは自分で自分を追い込む脅迫観念。いっそ、まるっきり見えなくなったらなんぼ楽になるべ。あの当時そう思っていた。そうしたらそうなっても結構やれる、と思うのは行き着く先に行き着いた居直りか。それとも自己満足か強がりか。 〇俳句の投稿 草も気も触れれば匂う秋の山  萩野ケイ 猫の背をなででコーヒー日向《ひなた》ぼこ  宇佐美咲子 病室の窓打つ音やほう落ち葉《おちば》  柿崎妙子 夕空《ゆうぞら》をなぞる一筋《ひとすじ》雁《かり》渡る《わたる》  小笠原秋一 トンネルを抜けてふたたび大野花《おおのはな》  熊谷幸二郎 ○皆様からの投稿について 「点字図書館だより」に、読んだ本の感想や、体験談、短歌・俳句など利用者の皆様からの投稿をお待ちしております。 お預かりした作品は、「点字図書館だより」内「みんなの広場」でご紹介させて頂きます。 (送付先) 〒011-0943 秋田市土崎港南3丁目2の58 秋田県点字図書館 (FAXを利用の場合は) 018−845-7772  (メールを利用の場合は) アドレス tenji@fukinoto.or.jp いずれも「みんなの広場」係まで お電話での聞き取りでも可能です。