6.みんなの広場 エッセイ風自分史・三郎 その二七  『野面石』出版のころ 武田金三郎 作品集『野面石(のづらいし)』を処女出版したのは三十八歳のことであった。それまで私は主に全林野《ぜんりんや》秋田地方本部文芸サークル「こだま」誌、地方本部文化誌「新樹」、それに中央本部文化誌「ぜんりんや」誌などを発表の場としてきた。『野面石』はこれ等に発表したものから選んだものに、本の題名にしている『野面石(九十枚)』の書下ろしを加えたものである。 書き下ろし『野面石』は失敗作であった。作品集を世に出すからには一つくらい書下ろしを加えないと。そんなカッコウづけがそもそも作為的であった。それで作品も。野面石とは川原などに転がっている石ころのことである。私の作品の全ては石ころに象徴される市井の人々だけを素材にしてきている。 『野面石』の冒頭、久保田正文氏が檄文《げきぶん》を寄せてくれている。氏は私が小説を書き始めた当初から目を注いでくれてきた文芸評論家である。「文学界」誌や毎日新聞『今月の同人雑誌評』などを通じ、適切なアドバイスをしていただいたものだ。これがどれほどの励ましになったことか。 『野面石』が私の処女作であることで、能代・山本勤労者文学会『絆』の仲間主催で出版祝賀会もやっていただいた。労働会館二階、折りたたみテーブルに白布を載せ、パイプ椅子に向かい合って座ったのは四十人ほどであったか。あのとき野添憲治氏が司会をしてくれた。 このころ『痛恨の挽歌』という、原稿用紙三十枚ほどを「ぜんりんや」誌に発表した。これはチェンソーを操る山林労働者を主人公にしたもので、伐採作業中、その木の下敷きになった事故死を扱ったものである。 『痛恨の挽歌』は発表の翌月、『父の死』と改題されて「文学界」誌に掲載されたのだが、久保田正文氏の働きがあってのことだと思われる。 「野面石』を出版して数年後、総評文化賞選奨をいただいたのだが、この授賞式に久保田氏がわざわざかけつけてくれた。氏とお会いしたのは後にも先にもこれだけである。このとき、久保田氏は自分用の原稿用紙を手提げ袋にいっぱい詰めて持って来てくれた。氏も視力が衰えてきていたので自分用を作ったのだという。ところが私には升目の確認ができなかった。氏の心遣いは私を感動させたものの、私を慮って逆に恐縮していたのであった。 『久保田正文にこたえる作品を書かなければならない』 氏が亡くなってもはや久しい今でもそう思って書いてきている。 あれからずっと『野面石』を超える作品を書くことを心がけてきている。『少年』がそれを越えたか、越えたとは言い切れない。『野面石』から『少年』まで、この間二冊の出版を経たとは言え、三十一年の間があったこと、二つの奥付から知った。今七十六歳。気持ちはまだ書き続ける。 ○皆様からの投稿について 「点字図書館だより」に、読んだ本の感想や、体験談、短歌・俳句など利用者の皆様からの投稿をお待ちしております。 お預かりした作品は、「点字図書館だより」内「みんなの広場」でご紹介させて頂きます。 (送付先) 〒011-0943 秋田市土崎港南3丁目2の58 秋田県点字図書館 (FAXを利用の場合は) 018-845-7772 (メールを利用の場合は) アドレス tenji@fukinoto.or.jp いずれも「みんなの広場」係まで お電話での聞き取りでも可能です。