6.みんなの広場 皆様から投稿していただきました 武田金三郎《たけだきんざぶろう》さん エッセイ風自分史・三郎 その一七  秋田行き上り二番列車 武田金三郎《たけだきんざぶろう》   長姉《ちょうし》は私より九歳多い。そうして末っ子の七女は私より七歳少ない。母はだから十六年間に十人を産んだことになる。ただ、四女は生まれて三ヵ月ほどで亡くなっている。九人兄弟のうち、この長姉が最も成績が良かったのは性格が強くて負けじ嫌いによるものだ。  けれど長姉《ちょうし》は高校進学がかなえられなかった。中学三年の冬休みが近づくといよいよ高校進学が差し迫る。このころ、姉の担任が家庭訪問をして親に進学を勧めた。が親は首を縦に振ることをしなかった。二度目、担任は教頭を伴って来たがそれでも首を縦に振ることをしなかった。このときの光景を私はうっすらとだが記憶している。   私が二十一歳のころ、営林署現場勤務で旧森吉町の山奥に下宿していたとき、この姉に手紙を書いたことがある。さしたる要件があってのことではない。姉からの返信に次のようなことが書いてあった。  『田圃《たんぼ》で草取りをしていると二番列車が通過していく。この汽車で同級生たちが秋田市の高校に通っているんだ。そう思うと悔し涙《くやしなみだ》で汽車が見えなくなったものです』  私の家の田圃《たんぼ》は奥羽本線沿《おううほんせんぞ》いにあって、列車が通過すると田圃の水に漣《さざなみ》の波紋ができた。秋田行き上り列車、早朝六時台を通称一番列車と言い、七時半前に通過するのが二番列車、秋田市の高校に通学する生徒たちは二番列車を利用していた。八郎潟駅から乗るのである。朝食を終えた八時半過ぎ、三番列車が通過する音を聞いて、人々はまた田圃へと下りて行くことになる。  長姉《ちょうし》は朝早く田圃の草取りをしていて、そこを同級生たちを乗せた二番列車が通過していく。午後五時過ぎ、今度は下り列車で帰って来る。長姉《ちょうし》はどんなに悔しい気持ちで列車を見届けていたことか。これを思うと私は今でも胸が締めつけられる。  この手紙でもう一つ、私を切なくさせたものがある。姉は便箋に鉛筆を使って書いていたのだが、これがカナクギ文字そのものになっているではないか。嫁《とつ》いで以来、手紙どころか文字を書くことなど無縁の生活をしてきていたのだ。  長姉《ちょうし》は幸せとは言えなかった。姑《しゅうとめ》が行商をやっていたのだが、姉にはこれをやらせないから、と約束をしていたものの、これは仲人《なこうど》の常套手段《じょうとうしゅだん》なる口車《くちぐるま》。ただ、行商とは言っても戸別訪問《こべつほうもん》でなくて小売商店への仲卸《なかおろし》専門ではあった。  加えて夫なる人物も仲人口と乖離《かいり》があり過ぎた。嫁ぎ先は夫のほか祖父母と彼の母親だけの母子家庭の兼業農家であった。一人っ子の夫はわがままいっぱいに育てられ、おまけに今で言うイケメンであった上、酒には滅法強くて女にモテた。結婚すると聞いた愛人が一緒に死のうと線路に頭を乗せるということまであった、と夫が長姉《ちょうし》に教えたそうだ。  長姉《ちょうし》は七十一歳に大腸癌で亡くなった。何年来痔の治療で病院通いをしていたというのに。あれは最初から大腸癌であったかもしれぬ。医者が初めから思い違いをしていたのではないか。だとしたら早すぎる姉の死は医者の怠慢《たいまん》によるものだ。私はそう思っている。  「三郎からエネルギーをもらうね」  病院に見舞う都度《つど》、姉はそう言って私の手を握《にぎ》った。生きたかったと思う。 ○皆様からの投稿について 「点字図書館だより」に、読んだ本の感想や、体験談、短歌・俳句など利用者の皆様からの投稿をお待ちしております。   お預かりした作品は、「点字図書館だより」内「みんなの広場」でご紹介させて頂きます。  (送付先)   〒011−0943   秋田市土崎港南3丁目2の58    秋田県点字図書館   (FAXを利用の場合は)   018−845−7772   (メールを利用の場合は)   アドレスtenji@fukinoto.or.jp   いずれも「みんなの広場」係まで   お電話での聞き取りでも可能です。